社会学の観点から文学をマクロに考えるー自然や文化の観察者としての作家について7


 例えば、円山川の中の物を人が眺めている。首に七寸の魚串が刺さっている鼠が川に投げ込まれ、子供や車夫が石を投げていた。なかなか当たらない。鼠は石垣へ這い上がろうとする。しかし、魚串が痞えてまた水に落ちた。直哉がここで見たものは、物体から跳ね返ってくる光を受け取り物体の色や形、大きさ、立体感などの認識になっている。直哉の観察は、凝視である。
 国木田独歩は、作品中に誠実な目で天地自然の存在を見出し、その存在感を指摘している。文体は、言文一致の「武蔵野」でも誠実な自分が語り手のため、主観も客観も描写が可能であった。内面を持つ新しい個人の出現や独歩の内面の写し絵として武蔵野の自然を使用した。独歩は、生涯を通じて社会に関心があり、文学の手法は想像力を基礎とし、作者自身に関わる作品を正当とした。「武蔵野」は、独歩自身を最も慰めてくれる自然の物語であり、言文一致の成功例として同じ気持ちを持つ人間たちに向けて語りかけている。
 エリアス・カネッティは、「マラケシュの声」の中でこの町のアラブとユダヤの街区を通り、不思議な匂いを嗅ぎ、値切り商人と香ばしいパンの売り子を観察し、スラムで盲人、乞食、身体が不自由な障害者の声を聞いた。駱駝の前では屠殺係りの肉屋と一緒に頼りない創造性と間近の臨終を感じ取り、多くの哀れなユダヤ人の顔に驚き、親密な人間関係の証人となり、悪意、貧窮、売春を見て、より良い生活への羨望を感じた。控えめな主観性による散文集の中で、現実の背後にあるファイナルを解き明かすその声や行動に文化の観察者としての五感が冴え渡る。

花村嘉英(20202)「社会学の観点からマクロの文学を考察するー自然や文化の観察者としての作家について」より


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