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  • 莫言の「蛙」でシナジーのメタファーを考える6

    4 分析

    【連想分析1-1】

    表2 万足が姑姑に相談する場面

    A 姑姑,要不就让她生了,我沮丧地说,党籍我不要了,职位我也不要...
    意味1 1、意味2 3、意味3 2、意味4 1、正義2、平等2
    B 姑姑猛拍桌子,震得我面前水杯中的水溅了出来。
    意味1 1+2、意味2 2、意味3 1、意味4 1、正義1、平等1
    C 你太没出息了!小跑!姑姑说,这不是你一个人的事!我们公社,连续三年没有一例超计划生育,难道你要给我们破例?
    意味1 1、意味2 2、意味3 1、意味4 1、正義1、平等1
    D 可她寻死觅话,我为难地说,要真弄出点事来可怎么办?
    意味1 1、意味2 3、意味3 2、意味4 1、正義2、平等2
    E 姑姑冷冷地说:你知道我们的土政策是怎么规定的吗?-喝毒药不夺瓶!想上吊给根绳。
    意味1 1、意味2 2、意味3 1、意味4 2、正義1、平等1

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 莫言の「蛙」でシナジーのメタファーを考える5

    3 データベースの作り方

     データベースの作成法について説明する。エクセルのデータについては、列の前半(文法1から意味5)が構文や意味の解析データ、後半(医学情報から人工知能)が理系に寄せる生成のデータである。一応、L(受容と共生)を反映している。データベースの数字は、登場人物を動かしながら考えている。
     こうしたデータベースを作る場合、共生のカラムの設定が難しい。受容はそれぞれの言語ごとに構文と意味を解析し、何かの組を作ればよい。しかし、共生は作家の知的財産に基づいた脳の活動が問題になるため、作家ごとにカラムが変わる。

    【データベースの作成】

    表1 「蛙」のデータベースのカラム

    文法1 態 能動、受動、使役。
    文法2 時制、相 現在、過去、未来、進行形、完了形。
    文法3 様相 可能、推量、義務、必然。
    意味1 五感 視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚。
    意味2 喜怒哀楽 情動との接点。瞬時の思い。
    意味3 思考の流れ 計画出産のありなし。
    意味4 振舞い ジェスチャー、身振り。直示と隠喩を考える。
    医学情報 病跡学との接点 受容と共生の接点。構文や意味の解析から得た組「計画出産と現実」と病跡学でリンクを張るためにメディカル情報を入れる。
    記憶 短期、作業記憶、長期(陳述と非陳述) 作品から読み取れる記憶を拾う。長期記憶は陳述と非陳述に分類される。
    情報の認知1 感覚情報の捉え方 感覚器官からの情報に注目するため、対象の捉え方が問題になる。例えば、ベースとプロファイルやグループ化または条件反射。
    情報の認知2 記憶と学習 外部からの情報を既存の知識構造に組み込む。その際、未知の情報についてはカテゴリー化する。学習につながるため。記憶の型として、短期、作業記憶、長期(陳述と非陳述)を考える。
    情報の認知3 計画、問題解決、推論 受け取った情報は、計画を立てるときにも役に立つ。目的に応じて問題を分析し、解決策を探っていく。獲得した情報が完全でない場合、推論が必要になる。
    人工知能 正義 一筋に思い込んであくまで強情に押し通そうとする性質。
    人工知能 平等 自由の平等、社会経済の平等。

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 莫言の「蛙」でシナジーのメタファーを考える4

    2.2 愚昧と甘受

     愚昧は、愚かで道理がわからず、鋭敏さに欠け、滑稽なことをいう。一方、甘受とは、与えられたものをやむを得ないものとして逆らわずに受け入れることである。致し方ないともいえる。現状からの回避が困難で逃れようがなく受け入れざる負えない状況にある。万足と小狮子夫妻の代理出産に関する場面でこれらの違いを説明しよう。
     小狮子も姑姑も些か精神的に正常ではない。小狮子の側から見ると、もう年をとって自ら出産することはできないが、代理出産により子供を授かることは一理ある。しかし、闇の取引であり、若い女が子供を欲しがるような振舞いを見ると、愚かで滑稽な面がある。
     夫の万足から見るとどうであろうか。代理出産で親権を争い、裁判沙汰になっても譲ることなく赤ん坊を我が子として可愛く思う妻がいる。あれ程までに出産に関してうるさく口やかましくいってきた姑姑さえも一線を退いてからかつての面影はない。そうした状況で、万足としては、代理出産による赤ん坊を受け入れざる負えない立場にあり、甘受といえる。これにより子供を授かるという平等が実現され、法のレベルのみならず社会主義でいう平等に一応到達している。
     ストーリーをまとめるために、万足は、魯迅の「祝福」を例に引く。自ら罪を犯した人間は、己を慰めようとする。祥林嫂は、生涯を見れば幸不幸の連続である。奉公に出て給金を貰い結婚もし子供にも恵まれた。しかし、丈夫な亭主がチフスで亡くなり、門外で豆剥きをしていた子供が狼に食べられた。一寸闇に闇がある。  
     春に獣が出るとは知らずとか子供が生きていたらと皆が聞き飽きるほど繰り返す。心的外傷後ストレス障害(PTSD)である。そのため、罪悪感から落ち込み不安にかられる。罪滅ぼしのために土地の廟へ行き、入り口の閾を寄進し、一応罪の意識から解放される。しかし、風紀を乱したため雇い主から好かれることもない。冬至祭りでも仕事がなく失神して気力がなくなる。死後の魂や家族そして地獄を問う末期の血の気のない痩せた女が愚昧に加味されている。

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 莫言の「蛙」でシナジーのメタファーを考える3

     莫言(1955-)の「蛙」の購読脳を「計画出産と現実」にする。計画出産は、上述のように中国の国策である。正義または正義感は、平等であることをいう。資本主義であれば、確かに法のレベルで形式的に平等がある。一方、社会主義の場合は、平等が実現して初めて平等だと主張される。
     昔から不安な時代に自分自身がどのように人生の舵取りをするかというテーマは重要であった。先行きへの不安は確かなものであり、場合によって虚無的で無力にもなってしまう。そうなったとき自分が生き延びるために、リスクを最小に抑えた生活を送ったり、人生に迷う理由を他者の存在に委ねることで自己を肯定したりする。
     神島(2018)によると、正しい社会のあり方を追求する正義の理論は、自分と相手が合意可能な正義を求め、正しい社会の調節から個人に幸せが齎される。しかし、領域が拡大したら、正しい社会のあり方は、綿密に考察する必要がある。
     「蛙」の内容で見ると、不安な時代は、1949年に人民共和国が成立した当時の人口約5億4千万人から毎年急増した30年間であり、1981年には10億人を超えている。増加の一途を辿れば、国家破産というシナリオも考えられる。国家破産ともなれば、誰もが虚無で無力になってしまう。一方、増加を抑制できれば、リスクが回避され、他の項目、経済や技術の分野との相乗効果も期待できる。
     神島(2018)が説くアメリカの哲学者ジョン・ロールズ(1921-2002)は、正義の原理に二つのプリンシパルを持つ。一つは、基本的な自由の平等であり、また一つは、できうる限りの社会的で経済的な平等である。自由の平等は、自分と相手が合意可能な正義とし、正しい社会の調節を社会経済の平等と置き換えることも可能である。つまり、皆が満足するように調整できれば、ロールズの原理に近づいていく。そこで「蛙」の執筆脳は、「正義と平等」にする。
     正義に纏わる脳の活動は一徹である。一筋に思い込んであくまで強情に押し通そうとする性質または頭の使い様のことである。「蛙」の購読脳を「計画出産と現実」、執筆脳を「正義と平等」にすると、シナジーのメタファーは「莫言と正義」になる。これは、リスク回避にも繋がっていく。

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 莫言の「蛙」でシナジーのメタファーを考える2

    2 Lのストーリー 莫言と正義

     山東省にある片田舎の婦人科の女医が「蛙」の主人公である。彼女の名前は万心で、登場人物の名前が身体の部位や人体の器官から取られている。こうした風習は、母と繋がっているという意味であろうか。新中国成立後、1970年代に始まる政策の一つに出産の規制がある。吉田(2011)によると、この計画出産は、増加率が年20%を越えた人口問題に対応するための国策であり、30年の歳月を経て人口の増加はようやく鈍化した。
     出産の関連用語に堕胎がある。堕胎とは、生命のある胎児を自然の分娩期に先立って、人為的に母胎外に排出させることである。また、堕胎罪は、堕胎を実行することによって、成立する犯罪である。但し、優生保護法に基づく人工妊娠中絶などはこれに該当しない。人工妊娠中絶は、妊娠の持続が母体にとって危険である時などに、手術によって流産または早産させることである。
     「蛙」は、万足の最初の妻王仁美が密かに二人目を孕む場面や王胆が月足らずで陳眉を出産する場面、食用蛙の養殖工場の裏にある代理出産センターを舞台にした陳眉と小獅子による親権争いなど、出産に纏わる筋立てでストーリーが展開し、最後に代理ではあるが、小獅子と万足夫婦が子供を授かるところで終わる。
     この小論でLの信号の流れは、縦横何れも分析→直観→エキスパートとしたい。縦は、言語の認知により構文と意味の分析があり、横は、情報の認知による情報の捉え方や記憶そして問題解決・未解決の分析が来る。
     小説の問題解決の場面を対象にし、信号が問題解決に届いたら、その信号が体全体に回るかどうかを考える。感覚は、感覚器官や神経そして脳の連動から生まれるためである。

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 莫言の「蛙」でシナジーのメタファーを考える1

    1 先行研究

     文学分析は、通常、読者による購読脳が問題になる。一方、シナジーのメタファーは、作家の執筆脳を研究するためのマクロに通じる分析方法である。基本のパターンは、まず縦が購読脳で横が執筆脳になるLのイメージを作り、次に、各場面をLに読みながらデータベースを作成し、全体を組の集合体にする。そして最後に、双方の脳の活動をマージするために、脳内の信号のパスを探す、若しくは、脳のエリアの機能を探す。これがミクロとマクロの中間にあるメゾのデータとなり、狭義の意味でシナジーのメタファーが作られる。この段階では、副専攻を増やすことが重要である。 
     執筆執筆脳は、作者が自身で書いているという事実及び作者がメインで伝えようと思っていることに対する定番の読み及びそれに対する共生の読みと定義する。そのため、この小論では、トーマス・マン(1875-1955)、魯迅(1881-1936)、森鴎外(1862-1922)の執筆脳に関する私の著作を先行研究にする。また、これらの著作の中では、それぞれの作家の執筆脳として文体を取り上げ、とりわけ問題解決の場面を分析の対象にしている。さらに、マクロの分析について地球規模とフォーマットのシフトを意識してナディン・ゴーディマ(1923-2014)を加えると、“The Late Bourgeois World”執筆時の脳の活動が意欲と組になることを先行研究に入れておく。
     筆者の持ち場が言語学のため、購読脳の分析の際に、何かしらの言語分析を試みている。例えば、トーマス・マンには構文分析があり、魯迅にはことばの比較がある。そのため、全集の分析に拘る文学の研究者とは、分析のストーリーに違いがある。文学の研究者であれば、全集の中から一つだけシナジーのメタファーのために作品を選び、その理由を述べればよい。なお、Lのストーリーについては、人文と理系が交差するため、機械翻訳などで文体の違いを調節するトレーニングが推奨される。

    花村嘉英(2020)「莫言の『蛙』でシナジーのメタファーを考える」より

  • 高行健の文学の理由-20世紀の中国文学6

     作家は、創生の主役を担わない、また自己精神を錯乱させて狂人に変え、現世を幻に変え、体以外のものは全て浄罪界になり、自然と降りることはない。他人はもちろん地獄で、自我が制御できなければ、どうしてこのようにならないのか。未来のために自分を祭りの品にし、人を犠牲にする必要はない。
     作家は、預言者ではない。人を騙さず、妄想を失くし、同時に自我を審査する。自我が混沌となり、質疑の下、世界が他人を興すと同時に自己を回顧してもよい。災難や圧迫は、外部から来て、自身の臆病は苦痛を深刻にし、他人に不幸をもたらす。
     作家は、真実を提言する。作家は、真実の洞察力を把握し、作品の品格の高低を決定する。作家は、粗探しをしながら独特の叙述方式の過程の中で感知を実現する。
     作家は、報酬を計算せずに自分の必要を書き、自身を肯定するだけでなく、社会に対して挑戦するのも自然である。作家個人の感情は、作品の中で解けて文学になる。作品が社会に対する挑戦となる。不朽の名作とは、時代や社会の有力な回答である。喧しいことは消え、読者が繰り返して読むことにより作品の中の声が残る。文学は、正に歴史の補充である。

    参考文献

    高行健 高行健短編小説集 聯合文學 2008
    高行健 母(飯塚容訳)集英社 2005
    花村嘉英 高行健の「朋友」の執筆脳について ファンブログ 2022
     

  • 高行健の文学の理由-20世紀の中国文学5

    3 作家と読者の関係

     高行健は、10年前「霊山」の後、短文を書いている。文学はもともと政治とは無縁で、単に個人の事情であり、まずは観察で経験に対する回顧となり、憶測や感受も心態の表現で思考に対し満足する。
     作家は、ただ話して書く際、一個人であり、他人は、聞くも聞かないもでき、読むも読まないもできる。作家は、人民に命じる英雄でなく、偶像崇拝に値せず、罪人や民衆の敵でもない。権力や勢いが敵人を作り、民衆に注意を移すと、作家はある種の犠牲品になる。不幸のために眩暈がする作家は、以外にも祭品に当たり光栄となる。
     作家と読者の関係は、作品を通じて精神的に交流するだけである。読み書きは、自分で感じ自分で願う。そのため、文学は大衆においてどんな義務にも負けない。作家は、創作に従事する。難を持って生を維持するもある種の贅沢として精神的に満足する。出版作業は幸せである。社会の認可を求めず、報奨を望まない精神活動だからである。

    花村嘉英(2022)「高行健の『朋友』の執筆脳について」より

  • 高行健の文学の理由-20世紀の中国文学4

     文学は、権力を飾り付けず、社会の風雅に非ず、自ら価値判断を有する。つまり、審美を理解する。審美は相関し、文学ならではの判断になる。文学を通じて良く影響され、鑑賞力が身に付く。閲覧中から作者に詩意の興味を与え、崇高が笑いを生み、悲しみが怪談となり、幽黙は嘲諷になる。
     詩意は、抒情より来て、作家の無節制による自変は、幼稚病であり、初めて学んで書くときはこれを免れない。抒情には多くの区切りがある。詩意は、隠れていて距離を持って注視する。この注視は、作家本人を審査し、著作の人物を越え作者の上にあり、作家の第三の眼となる。
     文学は、芸術と同じではあるが、モダンで年と共に変わり、価値判断は、時代の流行を区別することに等しく、芸術において新たなものになる。作家の価値判断が市場の行動を追従するならば、文学の自殺行為になる。 

    花村嘉英(2022)「高行健の『朋友』の執筆脳について」より

  • 高行健の文学の理由-20世紀の中国文学3

    2 第三の眼

     現在、一人の作家は、意を刻み、民俗文化を強調し、総じて疑いもする。私の出生、使用言語、中国の文化伝統は、自然と身の上にあり、文化も総じて言語と密に創刊し、感知を形成し、ある種の思考や表現は、隠れた特殊方式を比較する。しかし、作家の創造性は、この種の言語で言い過ぎたところから始まり、この種の言語で十分に表現しないところは、訴えていう。言語芸術の創造者として自己に民族意識を張らなければならない。 
     文学作品の超越した国境は、翻訳や語種を越え、地域や歴史を越えて形成する特定の社会習俗や人間関係、深く染み出る人間の性質は、人類普遍が互いに通じ合う。作家は、誰でも民族文化の外にある多重文化の影響を受け、民族文化の特色を強調し、旅行業で広告を考慮しなければ人生を疑う。
     文学は、人の生存に対し苦難の世話をしてくれる。文学に対する限定は、総じて文学以外の政治、社会、倫理、習俗の企画が文学に鋏をのせ、各種の枠組みに至り、装飾として好まれる。

    花村嘉英(2022)「高行健の『朋友』の執筆脳について」より