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  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える10

    ●天安门事件的时候你在北京吗?在。六九年枪毙我的时候,我倒没什么痛苦,只是后来,政治变动反反覆覆,没完没了,什么事情也不能做,可我从广播中听到「天安门暴乱」的时候,我一定要问问当时的真实情况。
     天安門事件(1989)のとき、君は北京にいた。1969年私の原稿が没になったとき、苦痛はなく、政治の変動が繰り返された。完了せずどんな仕事も出来なくなり、天安門の暴乱を聴いたとき、必ず真実の状況を問わねばならないと思った。(3)
    ●天安门事件之后,我一个晚上全部烧掉了。那稿子将近四十万字。
    天安門事件後、一晩で原稿を全部燃やしてしまった。原稿は40万字に及んだ。(3)
    ●最后一章的结尾是・・主人公在大山里走了很久,疲倦极了,躺在看山人用巴茅草搭的窝棚里。没有鸟雀叫,也没有昆蟲嘶鸣,四下十分寂静,只有两峰之间一片异常明洁的天空。顶峰之下,荆棘叢生。这是很美的。你因该把它重新写出来!用手擦去玻璃窗上的水气,凝望著窗外。下雪了。街上没有风。雪花无声无息落在衣领子上。我们一同上小学,随后又一同上中学。那当然,你这条命可是捡来的。你没有骂出口,我们就笑了。
     最後の章で、主人公は山中を長いこと歩き、疲れて横になり山を見ている。鳥や雀の泣き声も虫や興梠の泣き声もしない。静寂で峰の間に奇麗な天空がある。峰の下には茨が生えている。とても美しい。書き残すべきである。手でガラス窓を擦り、目を凝らしてみる。雪である。街に風はなく、雪花は声も息もなく襟にある。我々は共に小学、中学へ毎日歩いて通った。命は拾ってきた。罵ることなくすぐ笑った。(3)
     
     読み終えてからLの分析をすると、購読脳については、文化大革命と天安門事件をキーワードとし、「創造性と真実」を考える。執筆脳は「命の尊さと楽天」となり、購読脳と執筆脳を合わせたシナジーのメタファーは、「高行健と楽天知命」にする。高行健の「朋友」に対する基本姿勢は、内心の感情を外界へと投射する主観の調節が一番多い。

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える9

    ●我想起十三年前你最后给我的呢封信・・・我没有立刻回你这封信,可我一直想婉转提醒你,书信也好,说话也好,不要带这分俏皮,因为那时候政治气氛已经十分紧张了,免得惹来麻烦。两个月后,这场翻天覆地的文化革命便爆发了,谁也不知道谁的命运如何,我预感到你得灾难,而后你果真音讯全无。
     13年前私に送った最後の手紙を思い出す。すぐに返事は出さなかった。婉曲した言い方で手紙を書くのは良いし話をするのもよいけど、洒落ている必要はない。その時の政治気分が十分に緊張していたため、煩わしさを避ける狙いがあった。間もなく天地を翻す文化大革命(1966-1976)が爆発した。誰も人の運命のことはわからない。君に災難が降りかかる予感がし、果たして音信は不通になった。(3)
    ●死并不可怕,只不过是一种遗憾。面对死亡不会这样平静,我要喊叫,要抗议这种愚蠢荒谬的死亡。
     死は恐れるに非ず、但しある種の遺憾はある。死に面して冷静ではいられない。叫びながらこの種の愚かで間違った死に抗議しろ。(3)
    ●我哼了这个中那个苦苦探索,热切追求的主题,你连连点头。那是个急速上升,又中断了,又急速上升的旋律。那是对未来,对理想对一种灿烂的生活的激情的呼唤。它默燃过我,默燃过你。这就是相隔了十三年,你我经历了生离死别,我们之间却依然息息的相通的精神。
     鼻歌を歌い曲の中の苦しみを探し、主題を追求する。君は頷く。旋律は、中断したり上昇したりする。未来に対し、理想に対し、一種の光輝く生活の激しい感情の叫び。私を燃やし君を燃やす。13年の隔たりは、生まれ離れ死で別れることになる。我々の間で相通した精神は後退する。(3) 
    ●我企图说服你同我一起学文学。你反驳我说。社会前进的道路已经不用我们来闯了。大革命的时代完成了,没有巨大的社会变革就不会有深刻的文学,我们面前的路太平坦了,时代留给我们的只剩下创造性的劳动。
     私と一緒に文学を学ぼうと説得したことがある。君は反駁した。社会が前進する道路は、すでに我々の突進を必要としない。文化大革命の時代は、完成した。巨大な社会の変革はなく、深刻な文学もない。前途は太平であり、時代が我々に残したものは、創造性の労働である。(3)

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える8

    ●而十三年年后,你依然是你,我也没变?你又笑了。你已经有了白头发了,两髭和前额都分明夹杂著根根白发。你只不过比我大两才。领导班子里六十多才还算年轻。
    13年経っても君は変わらずに君である。私も私のままなのか。君はすでに白髪がある。髭にも額にも白髪がある。私より2つ年上でもう中年の域である。しかし、指導者として60歳はまだ若い。(3)
    ●毛毛刚考上了研究生,当太学生。你又哈哈大笑。居然还这样乐天。真枪毙过你?差点没到马克思老人家那里报道去。你说得很认真。
    研究生の試験に合格し、大学生になった。以外にも大笑いで楽天的である。君は銃殺されたのか。銃殺された、もう少しでマルクス老人の家に至らず出頭する所であった。笑いはない。(1、3)
    ●死真不是滋味,不过,死并不可怕。问题是死得这样年轻。冤鬼多著呢,我算不了什么。十五年前,我们刚大学毕业。
    死はどんな味なのか。偽の銃殺である。死は味などなく恐れるに非ず、何もしやしない、無実の罪の幽霊が非常に多くて計算しきれない。15年前、大学を卒業した。(3)
    ●他们把我带到我们地质队的东方红革命造反司令部,就好比战争时期得前线指挥部,而是在食堂隔壁,审完了吃消夜方便。你还像中学时代一样。
    東方紅革命造反司令部に私を引き連れ、戦争時期の前線指導部と好んで比較し、食堂にいても夜食を食べるのに便利かどうか審査した。中学時代のことである。(2) 

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える7

    3 「朋友」のLのストーリー 

     高行健も自身で作家について考え、私もシナジーのメタファーで作家の執筆脳について考えている。平たくいえば、問題は、作家の頭の使い様である。
     飯塚(2005)によると、高行健の小説を書くための基本姿勢は、1非ストーリー性、2人称の変化、3主観の表出である。

    1 非ストーリー性とは、ストーリーを語る意図がなく、所謂プロットがない。つまり、主題を中心とする登場人物の性格や心理描写が限られている。小説という言語の芸術は、現実の模写ではなく、言語の実現を意味する。
    2 人称の変化とは、人物形象の描写に頼ることなく、異なる人称を使って、読者の受け取りに角度を与えている。角度は転換することができ、角度と距離を変えて観察し体験することができる。 
    3 主観の表出は、環境に対する純然たる客観描写を排除しているため、内心の感情を外界へと投射する。
    実際に「朋友」の中身を見てみよう。

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える6

     作家は、創生の主役を担わない、また自己精神を錯乱させて狂人に変え、現世を幻に変え、体以外のものは全て浄罪界になり、自然と降りることはない。他人はもちろん地獄で、自我が制御できなければ、どうしてこのようにならないのか。未来のために自分を祭りの品にし、人を犠牲にする必要はない。
     作家は、預言者ではない。人を騙さず、妄想を失くし、同時に自我を審査する。自我が混沌となり、質疑の下、世界が他人を興すと同時に自己を回顧してもよい。災難や圧迫は、外部から来て、自身の臆病は苦痛を深刻にし、他人に不幸をもたらす。
     作家は、真実を提言する。作家は、真実の洞察力を把握し、作品の品格の高低を決定する。作家は、粗探しをしながら独特の叙述方式の過程の中で感知を実現する。
     作家は、報酬を計算せずに自分の必要を書き、自身を肯定するだけでなく、社会に対して挑戦するのも自然である。作家個人の感情は、作品の中で解けて文学になる。作品が社会に対する挑戦となる。不朽の名作とは、時代や社会の有力な回答である。喧しいことは消え、読者が繰り返して読むことにより作品の中の声が残る。文学は、正に歴史の補充である。 

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える5

    2.3 作家と読者の関係

     高行健は、10年前「霊山」の後、短文を書いている。文学はもともと政治とは無縁で、単に個人の事情であり、まずは観察で経験に対する回顧となり、憶測や感受も心態の表現で思考に対し満足する。
     作家は、ただ話して書く際、一個人であり、他人は、聞くも聞かないもでき、読むも読まないもできる。作家は、人民に命じる英雄でなく、偶像崇拝に値せず、罪人や民衆の敵でもない。権力や勢いが敵人を作り、民衆に注意を移すと、作家はある種の犠牲品になる。不幸のために眩暈がする作家は、以外にも祭品に当たり光栄となる。
     作家と読者の関係は、作品を通じて精神的に交流するだけである。読み書きは、自分で感じ自分で願う。そのため、文学は大衆においてどんな義務にも負けない。作家は、創作に従事する。難を持って生を維持するもある種の贅沢として精神的に満足する。出版作業は幸せである。社会の認可を求めず、報奨を望まない精神活動だからである。

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える4

    2.2 第三の眼

     現在、一人の作家は、意を刻み、民俗文化を強調し、総じて疑いもする。私の出生、使用言語、中国の文化伝統は、自然と身の上にあり、文化も総じて言語と密に創刊し、感知を形成し、ある種の思考や表現は、隠れた特殊方式を比較する。しかし、作家の創造性は、この種の言語で言い過ぎたところから始まり、この種の言語で十分に表現しないところは、訴えていう。言語芸術の創造者として自己に民族意識を張らなければならない。 
     文学作品の超越した国境は、翻訳や語種を越え、地域や歴史を越えて形成する特定の社会習俗や人間関係、深く染み出る人間の性質は、人類普遍が互いに通じ合う。作家は、誰でも民族文化の外にある多重文化の影響を受け、民族文化の特色を強調し、旅行業で広告を考慮しなければ人生を疑う。
     文学は、人の生存に対し苦難の世話をしてくれる。文学に対する限定は、総じて文学以外の政治、社会、倫理、習俗の企画が文学に鋏をのせ、各種の枠組みに至り、装飾として好まれる。
    文学は、権力を飾り付けず、社会の風雅に非ず、自ら価値判断を有する。つまり、審美を理解する。審美は相関し、文学ならではの判断になる。文学を通じて良く影響され、鑑賞力が身に付く。閲覧中から作者に詩意の興味を与え、崇高が笑いを生み、悲しみが怪談となり、幽黙は嘲諷になる。
     詩意は、抒情より来て、作家の無節制による自変は、幼稚病であり、初めて学んで書くときはこれを免れない。抒情には多くの区切りがある。詩意は、隠れていて距離を持って注視する。この注視は、作家本人を審査し、著作の人物を越え作者の上にあり、作家の第三の眼となる。
     文学は、芸術と同じではあるが、モダンで年と共に変わり、価値判断は、時代の流行を区別することに等しく、芸術において新たなものになる。作家の価値判断が市場の行動を追従するならば、文学の自殺行為になる。 

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える3

     作家がもし思想の自由を要すると思うならば、それはすでに逃亡になる。黙っていれば自殺と同じで、当否は、自殺を封じる。さらに自分個人の声を発する作家は、逃亡するしかない。毛沢東の時代には、逃亡を続けることもできなかった。個人で独立志向を保持したければ、自言自語は可能でも秘密裏に行う。自言自語は、文学の起点であり、感受を起して思考を言語の中に注入し、書面を通して文字に訴えると、文学が成立する。 
    高行健の執筆の履歴は、文学が根本的に自身に対する価値の確認になり、書く際にすでに肯定がある。文学は、まず作者自身が満足を要求し、社会の効果の有り無しは、作品完成後のことであり、作者側が決めることではない。
     言語は、人類の文明による結実であり、精微であり、難を持って理解し、利用できる機会を使い、感知を貫通し、感知の主体に対し世界の認識を同封しリンクを張る。書き留めた文字を通過するとまた奇妙になり、孤立した個人に任せ、異なる民族や異なる時代の人でも橋渡しをする。文学の執筆や閲覧の現実性が他と同様に恒久の精神価値を有し、こうしたリンクがともに起こる。

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える2

    2 文学の理由-20世紀の中国文学

    2.1 文学と作家

     高行健は、文学の理由として一人の作家の声について説明する。作家も人民の代弁者とか正義の化身として説けば、微弱ではない。個人の声は、真実に至る。彼の言い分は、文学も個人の声であり、国家の頌歌や民族の手本となり、伝搬手段を用いて勢いが増し、天地を覆いつくすも、すぐに本性を喪失し権力や利益の代用品に変わる。 
     この一世紀、文学は、不幸に見舞われた。政治の権力が深まり、作家は甚だしく迫害を受けた。文学は、自身の存在理由を擁護し政治の道具にならないようにする。そして、個人の感受を出て、文学が政治を離脱するとか政治に口出しし、関連する所謂傾向性や作家の政治傾向など、これに類する論戦も20世紀ならではの文学の病気といえる。こうした相関が起す伝統の革新や保守革命は、文学の問題を進歩に変え、反動の争いを起し、皆の意識形態を怪しくする。意識形態が権力と結合し、現実の勢力に変わり、文学は、個人が共に災いを被るようにする。  
     20世紀の中国文学の災難は、文学の革命が個人を死地に置いたことであり、革命の名義を持って中国の伝統文化の盗伐が公然と禁書や焼書をもたらした。作家は、殺害を被り監禁され、放流そして罰せられ、苦役をもってこの百年に関し計算するものがなくなり、中国の歴史上、一時代では比較の仕様もなく無比の苦難に満ち、自由な創作がさらに難しくなった。

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より

  • 高行健の『朋友』で執筆脳を考える1

    1 先行研究

     シナジーのメタファーという作家の執筆脳を研究するためにマクロの分析方法を研究している。作家について研究するという意味では、高行健(1940-)の文学の理由も参考にしてみたい。作家が発する声とはそもそもどういうものなのか。作家にとって文学とはどんな意味があるのか。
     最初にこれらのことを考えてから、次に「朋友」執筆時の高行健の脳の活動について考える。この分析は、購読脳の組み合わせと二個二個になるように執筆脳を調節し、それらをマージしながら最後に高行健と○○というシナジーのメタファーを考える。これは何も「朋友」だけではなく、短編集に含まれる同列の小説についてもいえることである。   
     中国文学の研究は、私にとり文献学上の比較の作業である。対照言語がドイツ語と日本語のため、北米や欧州のことばは勿論のこと、東アジアの国地域とも比較ができるように一応調節している。これまで魯迅の「狂人日記」や「阿Q正伝」そして莫言の「蛙」をシナジー共生で分析しており、その流れで今回は高行健の「朋友」を考察したい。高行健は、1962年に北京外国語大学フランス語科を卒業し、文革で下放している。下放とは、思想改造のため、地方の農村や工場へ行くことである。現在は、フランスのパリに在住である。

    花村嘉英(2021)「高行健の『朋友」』で執筆脳を考える」より